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学び と 問い

少し前の話になりますが、新聞を見ていて、ふと考えさせられました。

『大学で「学ぶ」意味は』というタイトルで池上彰氏が書かれていたものです。
(2016/4/18 日経新聞(朝刊))

池上氏は「問いを立てること」だと述べられています。
私自身もそう思っています。

大学での「学び」は、それまでの学びとは大きく異なります。
小学校・中学校、高等学校では、子どもたちは「生徒」と呼ばれ、
「先生」に自明のものごとを教えてもらう場となっています。
「学ぶ」の語源と考えられている「まねぶ」「まねる」の言葉通り、
疑うことなく、教えてもらったことを取り入れていく作業です。
このこと自体が正しいことなのかどうかはさておき、現状はそのようになっています。

ところが、大学はそのような場ではありません。
大学生は「学生」と呼ばれます。
指導されている教授らは、当然人生の「師」、学問の「師」ですが、
どの学問も完全には確立されていません。
つまり、学問が未だ系統立てられていない、すっきりしていないというわけです。
このあやふやな点に対しては、「師」も「学生」も供に「考える」側として対等となります。
そういう意味では、大学での「学び」とは、今までの学びとは一線を画したものだと言えます。

ところで、「考える」という動作は、どのようにして行っていくのでしょうか。
考えようと思いさえすれば考えられるという単純なものではありません。
もっと考えなさいと言われて考えれるなら、誰も困っていないでしょう。
考えるために必要なもの、それが「問い」なのです。
「思考」は「問い」から始まります。

もっとも単純な問いは「なぜ?」「本当に?」というものです。
「なぜそうなの?」「本当に正しいの?」と問うことは学びの上で本来、とても大切なものです。
単純な「問い」から思考が始まり、思考する中で次のより的を射た「問い」が生まれます。
この繰り返しが思考だと私は捉えています。

「問い」は大学生になれば必要不可欠になりますが、
かといって、それ以前には必要のないものではけっしてありません。

「問い」を大切にすると必然的に時間は要してしまいます。
学びの効率を考えると回り道に思ってしまうかもしれません。
しかし、そもそも大学で教鞭を執っておられる池上氏がこのような話をされるのは、
偏差値の高い大学の学生でさえ、きちんと問いを立てられていないと感じられているからです。
氏はその原因を、受験教育における効率化だと言われています。
その通りだと感じます。
結局は、急がば回れになっているわけです。

幼稚園児から小学校低学年ぐらいまでは、当たり前のように行っていた問いかけです。
それをいかに大切にしていくかが今後の教育のポイントではないかと思います。
子どもたちが一所懸命考えてくれるためには、どのような問いかけがよいのか。
そんなことをよく考えるこのごろです。






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